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北島先生のこと

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 4月 2日(土)23時22分0秒
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  忍岡のマドンナ、若くてすてきな体操の先生、という印象だけをもっていて、残念ながら先生の授業を受けたことはありませんでした。

その後、何度か、同窓会でお目にかかり、いつまでもお若いのと、内海先生同様絵画で精進なさっているということは知っていましたが、今回の上のグリーンパークでの同窓会でのお話がとても印象的でした。

それまでは、どこぞのお嬢様が先生になったのかも、程度の推測だったものが、実はもっとドラマチックな人生を歩まれたのだということがわかりました。

お父様に関するWikipediaの情報は以下の通り:
曰く:
北島義彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/08/20 03:09 UTC 版)

人物

東京都北区出身。北区立赤羽小学校PTA会長などを経て、都議。柔道5段。

「日本プロレスの父」といわれた八田一朗とともに、1964年東京オリンピック招致に奔走し中南米票の獲得に尽力したが、その途上、胃癌を発病しサンパウロから急遽帰国。その1時間後駒込病院で死去した。

三段跳びの大島鎌吉、競泳の古橋広之進らと交友があった。
以上

で、今回の北島先生のお話のなかにこのお父様のことがでてきました。 東京オリンピック実現のために奔走し、結果をだし、急にお亡くなりになり、3人姉妹の長女だった北島先生は悲しみもそこそこに、生活のための仕事を得るために、教員資格をとり、初めて就職したのが忍岡高校だった。 体育の先生になられたものスポーツマンでもあり、オリンピックとの関係の深かったお父様の影響だったのでしょう。 恐らく、その人脈も引き継がれ、東京オリンピックの時には、代々木の東京オリンピック村の村長も兼任なさっていたとのこと。 我々がオリンピック開会式の予行演習で競技場のアンツーカーを行進できたのも北島先生の人脈とご尽力によるものと思われます。

その後、趣味としての絵画が、生涯の仕事になり、あらたな才能を開花なさっているというわけです。 今回、先生のお話のなかに、やはり長い人生、山も谷もある人生、よくぞ、生きてきたわね!というご発言があり、個別に先生にお話を聞いた時も、今が底でもきっとまたいいときがくる、とやさしく元気づけをしていただきました。 実際のことろ、今は、仕事で、底にあるので、私もぐっと元気をいただきました。

で、その先生の展覧会には伺えなかったのですが、山田3B課長の写真を見ると、そこには、海辺の風景画の前に椅子に座ってポーズを取る中年と思しき女性の姿がある。 その姿勢はゆったりとくつろいでいるというよりは、どこか遠くを見つめて、何か思いにふけっているようにも見える。

もしかすると、これは北島先生ご自身の心の風景で、長い苦労もあった人生をふと振り返って、一息ついているような、そんな風情に見えます。 着物姿ではあるが、背中に持たれる風でもなく、前後にずれた足の位置からは、次のステップのためにすぐに立ちあがれるような躍動感も感じられる。

ただ、その風情からは、喜びや、特に憂いというものが動的に、前面に表現されているかといえば、そうでは無くて、テープルの花や水差しと思われる物体と同様の静物画に近い、人物のデッサンをしたともとれるような静けさにあふれている。

それは、ある意味で、これまで生きて来られた人生を振り返り、よかったことも、運の悪かったことも、いろいろとあるけれど、それらをすべて受け入れて、その人生を肯定したうえで、一息ついて、さぁ、またもう一歩前に進むぞ、という北島先生の生きるという意思というか、覚悟のようなものを感じる、といえば言い過ぎだろうか?
 
 
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